ときどきの老い
6: 2010年7月号
居眠り礼賛。
「居眠り」を、しょっちゅう・しばしば、するようになったな~、いつ頃からだろう、55歳すぎてからかな~?
人生のなかで、最高の快楽は、眠りに「落ちる」あの瞬間、と私は思っているので、あの瞬間を味わわずに、知らぬ間にコックリしているのは本意ではないが、まあ、これも肯定しよう。コックリから目が醒めたとき、「ああいけねえ、損した、人生の貴重な時間をムダにした」と思わないようにしよう。
書きながら、いま思い出したのは幼児の「昼寝」。5~6歳のころでしょう、いつの間にか縁側で眠ってしまって、目が覚めたときの、不思議の国から現実に戻るまでの、あの戸惑い、ここは何処?私は誰?いま朝?夕方??
愛おしくて抱きしめたいような、あのとき、あの私。トロンとしている意識はどうしてあんなに懐かしく可愛いのだろう。幼児の昼寝は、ほとんど現実の世界とおなじくらい、或いはそれ以上、子供にとってより切実でリアルな「夢」で満ちている。子供はみんな「不思議の国のアリス」。
眠りに落ちるあの瞬間、何もかも放擲する感じ。無責任になれるあの瞬間。「なるようになれや、もうなんも知らん、あ~~、おやすみ、さいなら」。つまり意識不明になる瞬間を毎晩味わっているわけです。「死」に落ちるときと同じ感覚だろうと想像できる。まず間違いないでしょう。それが私の何よりの愉しみであるなら「死」の瞬間も大歓迎ですねー。
怖しいのは、それまでの過程、肉体的苦痛や死の恐怖、といいますが、結果にあの快楽が待っているのだから我慢しましょうよ。
「居眠り」ばかりするようになったのは、死のレッスンを頻回に受ける必要のある年令に達した、ということでしょうか。
20歳から60歳くらいの、人生の「生産期」というか「社会人期」、仏教では「家棲期」と謂うようですが、その間の「居眠り」は、おやつタイム・一服の清涼剤。
けれど、「社会的役割」から引退した「林住期」の「居眠り」は、これはもう堂々と受けて立ち、味わわなければならない必須科目です。正規授業です。
避けたり、厭がったり、恥ずかしがったり、する種類のモノではありません。眠気に襲われたら、喜んでレッスンを受けましょう。素直にまた「ちょっと死に」ましょう。
むかしなら、長火鉢の前で、繕い物をしている、鼻眼鏡のおばあさんがコックリ、でした。あまり他人様に見せられるような姿ではないし、「ばあさんのコックリがまたはじまった」と、自分もしているくせに、亭主のおじいさんが冷やかしたものです。
いまの「じいさん・ばあさん」は若々しくてきれいだから、上のような風景にはならないが。恥ずかしがることはない。じぶんが幼児期に還りつつあることに気づき、愉しんでしまおう。「夢心地」って最高の老人力ですな。