東洋医学松柏堂医院

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ときどきの老い

8: 2010年9月号


死って怖い――②


 前回のさいごに、私が45歳から十年間くらい、巨樹・巨木に憧れていた時期があると書きました。こんど東京ツリーという巨樹が完成したら、この巨木に抱きついて頬ずりする人も居るかもしれません。なにか癒されるでしょうかね。
 還暦を前に、私がはっきり感じたこと、それは「自分には、若い頃よりも時間がもっともっと多く残されている」でした。
 前回に書いた「初老の校長先生」ではないけれど、それ以上の年令になっている私には、残りはざっと20年。「残り時間」は若いときの半分もない。だけど前途洋々たる感じが、若いときよりも確かにあるのはどうしてだろう?
 「自分が使えると感じる時間」は、社会的時間、客観的時間、とはずいぶん異なるものだ、ということでしょうね。若いときには、社会的時間や客観的時間にかなり近いところで、かなり拘束されたところで生きている。
 ボクには、この年になってからの方が「若いときより時間がいっぱいある」。どうしてもそう実感してしまうのは、「脳ミソ」が、「時間というもの」をキャッチするとき、すなわち、時を感じ、計算し、経過を計測し、累計したりする「脳ミソ計算機」の構造が、若いときとは異なってきているからでしょう。
 此処で言っていることは「そりゃ、社会ならぬ会社から引退して、生活のための労働時間、拘束時間が減った、単にそういうことでしょ」でしょうか?
 それと確かに重なってはいるでしょう。でも、私の感じていることは、「労働時間」「社会的約束ごと時間」からの解放だけではなくて、「客観的時間」つまり「寿命」とか「残り20年」とかの「時計的時間」からも解放されてきている、という感覚なのです。
 例えば、この年令になると「モノ忘れ」が当たり前になります。大きな「モノ忘れ」は、いつかこのエッセイでも触れた「自分の人生の、過去の厭なことは忘れてしまっている」という、まことに大きな大きな「老人力」です。「何を忘れているんだか、忘れているから、判らない」という人生は、客観的には検証のしようのない「いいこと尽くめのバラ色の人生」ですね。
 小さな「モノ忘れ」は、わたしなど、日誌を溜めてしまうと,一週間か二週間前のことをぜんぜん覚えていないことが、よくあります。つまり、よほど印象的なできごと以外は、「私には無かった」ことらしいのです。
これって、時間の浪費? 時間をどう感じているの?


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