ときどきの老い
9: 2010年10月号
死って怖い――③
前回の最後に、「モノ忘れ」の効能をすこし書きました。いま私がお話ししているのは、時間に対する感覚が若いときとは異なる、という話ですが、さて、過去のことを忘れる「モノ忘れ」は、言い換えれば、脳に心地よいことだけ選択して記憶ボックスに入れる、あるいは自分にとってプラスになることだけ脳バンクに貯金する、そういう老人特有の感受性=老人力、が身についてきたということです。
「モノ忘れ」とは反対に、将来のこと、未来の「時間にたいする感受性」はどうでしょうか?
若いころの私は、とてもとても「生き急いで」いました。映画のタイトルじゃないけれど「俺たちに明日はない」と思っていたようです。生活がバタバタしている。身の回りに、いろんな事件が次々と起きる。加えて、いろんな事件を次から次へと自ら引き起こす。
だから、将来は一週間くらい先きまでしかない。そういう青春です。「明日?そんな遠い未来のことは知らねえよ」なんかこれも映画の科白でしたね。
だから平均余命からいえば50年くらいはあったのに、自分の持ち時間はとても少なかったのです。時間がない時間がない、急げ急げ、時間をムダにするな、が口癖のようでした。直接関係ないかも知れないが、ひとりで勝手に興奮していたような、突っ張っていたような,イキがっていたような、そんな感じもします。
そしてその時の方が、「死」が近かったし「怖かった」。
「時間は充分にあるぞ、あわてるな」とはとても思えなかった。あれってどんな感覚だったのだろう。生活体験が二十数年しかないから、まだ「繰り返す生活」の時間が判らない。生物には、体内時計が埋め込まれているそうですが、そうだとすると、外界と自分を共に計測する体内時計がまるっきり育っていなかった。
いまの私には、見える、はっきり使える、見通しが立つ、そういってよければ計算できる未来がたくさんある。ホントかい? そんなのは、勝手な見込み計算。例えば「癌の宣告」ひとつでフッ飛ぶのじゃないかい?
う~ん、確かに若い頃より「死」は近いんだよ。でも「今」と「死」の間に挟まれている「時間」の質が、層が違うんだ。若いころの未来よりもずっと確かな時間の厚みがあるんだよ。