ときどきの老い
10: 2010年11月号
死って怖い――④
「生い先が短い」という年齢になって、何故か前途洋々たる気分がある。
若いときの「前途洋々」は「春秋に富む」ですね。まさに春秋=年月がまだまだタップリ残っている、という意味です。ところが辞書を引いてみると「春秋に富む」の第一義は「年若く、経験に乏しいこと」です。転じて「先が長いこと、将来性があること」になるのですが、一義的には「未熟」と言っているので、あまり良い意味ではないのです。
ついでに「春秋高し」とか「春秋長ず」ともあって、これは高齢であること、ですが、「高い」「長ず」の意味からいって、年老いていることを尊敬している表現であることは明らかです。
若いときには、これからの時間がいっぱいある筈なのに、何故かあくせくしている、と前号で書きましたが、理由のひとつは、やることが「多すぎる」でしょう。正確に言うと、「やらねばならぬ事」や「やらねばならぬと思っている事」が多すぎたのです。「できそうな事」「できればいいな~と思っている事」も同様に多すぎる、これが青春ですね。
これが、若いときの「前途洋々」の正体ですね。何しろ「やること」「やりたいこと」が溢れるようにあるから、「未来の時間はたっぷりある」のに「時間が無い、時間が足りない」とあくせく空回り。まさに「春秋に富む」の第一義は「年若く、経験に乏しいこと」でした。
いまの私はどうか。この自分が、生きている間に、「できそうもないこと」は何と何だ。いやいや、よく考えてみろ、決断しろ、そして「できそうもない」ではなくて「できないこと」を列挙してみろ、そして捨てなさい。
我が家の押し入れに山とある不要品を、貯め込むか、目をつぶって捨てるか、に似ている。未練。
最近の私の「前途洋々」感は、きっと「できないこと」をこれと定め、いくつも捨ててしまったからでしょう。そうすると、「やらねばならぬ事」がはっきり幾つか見えてきた。これは「できそうな事だし、できる事」に決まっています。「できないもの」は、さっき捨てたのだから。さわやか。
さて、死の床で、「やり残したことがまだまだある。死んでも死にきれない」と形相モノ凄く、「気が残っている」、きっと化けてでるぞ、は如何?
これは物語りとして、周囲の者の語り継ぐ伝説としては「あり」ですが、本人はその時「何を〈思い残している〉のか、忘れてしまっている」から大丈夫です。いちばん肝腎なときに、いちばん力強くわたしたちを救ってくれる、これが「モノ忘れ」という老人力です。死ってちっとも怖くない、のでした。