ときどきの老い
11: 2010年12月号
「老い先」から「生い先」へ、
前月号の冒頭で「生い先が短い」と書きましたが、「老い先」の間違いでした。「生い先」は、将来が豊かで「春秋に富む」ときに使います。
「老い先」は、先行きが短いときに用います。同じ「おいさき」でもニュアンスが大分ちがいますね。
ところで、最近の読書で次のような一節に巡り会いました。人生をひろげてゆくコツは「敬うべきものを前にしたとき、自らの個我を小さくすることであろう」というものです。
つっぱりに突っ張っている若いときにはあり得ないですね。
私の体験では、高校生のときの合言葉は「謙虚」でしたから、自分なりには柔軟な方だと思っていましたが、やはり、目上の者に何か言われると、カチンときて絶対に承伏しなかったな~。「敬うべきものを前にしたとき、自らの個我を小さくすること」がまったくできなかった。そもそも「敬うべきものを前にしていた」ことが何度もあった筈なのに、それが「敬うべきもの」とキャッチするアンテナが折れていたのだった。
話かわって、最近、信州を旅する機会がありました。ピッタリの「紅葉の見頃」で、実に美しい風景に魅了されました。山や植物に詳しい方の案内つきでしたから、知らなかった・忘れていた植物の名前もずいぶん頭の中に入ったし、素人だけでは行けない絶景ポイントも体験できました。
なかで、いちばん魅了された紅葉は、白樺の「黄葉」でした。一年の役割を終えた葉っぱが黄色く枯れて落ちかかっているのだが、とても明るい。まばらに隙間があるし、葉の一枚一枚が薄いから、空が透けて見える。みっちり、ねっちりと、濃密に紅葉しているナナカマドなどとは異なる、突き抜けた明るさと軽さがある。
美しい紅葉って植物学的には、植物がその年に貯めた老廃物をウンコしている現象、冬を前に、余計なものを捨てている現象です。これから葉を繁らし実をつける、春の美しい花盛りとは対極の現象です。
紅葉の美しさにしみじみと感じいる私は「敬うべきものを前にしたとき、自らの個我を小さくする」ことが、自然にできる年齢になったのかもしれない。だとすれば、これからはいままで以上に敬うべき対象から、たくさん吸収できるチャンスがあるわけだ。
小さくなるいことが大きくなること。「老い先」から「生い先」へです。